各支部のあゆみ


中和金陽会

昭和63年7月3日、高田市内の五條中学・五條高等女学校・五條高等学校の卒業生が集まって、高田金陽会が結成された。初代 関谷正文会長(昭和14年卒)が選出され、親睦会として毎年総会を開いた。
平成8年10月13日、平成11年金陽会総会(橿原大会)のホスト役を務めるに当たり、高田市周辺の橿原市・御所市・新庄町・當麻町等の在住の卒業生にも呼びかけ拡大を図った。その際、高田金陽会を中和金陽会と改称した。平成11年6月27日の金陽会総会(橿原大会)は、大変な盛会で、出席者も535名に及んだ。平成22年の金陽会総会(橿原大会)に向かって、会員の拡大を図っている。

大阪金陽会沿革(小史)

大正9年夏心斎橋、喜久屋食堂において、在阪五中同窓生相集いて五中同窓生の大阪支部としての大阪金陽会が誕生した。この時、在阪者以外に姫路・京都からも 参集し盛大に発足をしたと記録されている。
以後、会の運営は諸先輩の奉仕により受け継がれ、戦後大阪の復興と共に当会も始動し、菅野久一氏(五中11回)を会長に選びて、組織としての基盤を固めるのである。
菅野氏は、職務の傍ら会のために東奔西走、手作りの機関誌を発行して自身で配布しながら根気強く在阪同窓 生に積極的に勧誘されて今日の母胎を築かれ、昭和三十九年に惜別するまでの十数年間、会を護り続けられた事は特筆すべきであろう。
その菅野先輩が逝去された翌年の昭和四〇年、来田掃雲氏(五中24回)が中心となり市内福島区グリル孔雀にて菅野会長後の会運営について有志相寄りて懇談し、会長に亀田神三宝氏(五中15回)を、副会長兼事務局に来田掃雲氏を、会計には鬼追明夫氏(五高28年)の各氏を選ぶ。
その後来田先輩の闘病等があって、昭和四七年まで一時空白の時を過ごすのであるが、その間昭和四一年母校創立七〇周年記念事業には亀田会長を中心にして積極的に協力し募金割り当て額を大幅にクリアしたことが記されている。
昭和四七年本校同窓会長に大阪金陽会のメンバーであった的場太郎氏(五中28回)が就任されたのを機会に大阪金陽会を再建しようとの声が上がり、当時高齢にも関わらず亀田会長が率先して在阪会員に呼びかけて再建の為の準備作業が西区ニューオカザキバシビルにおいて再三行われ、同年十一月二三日近鉄百貨店において再建総会と銘打って五中卒のみならず五高女・五高卒の面々も参席し再建されたのであつた。又機関誌「大阪金陽」も同時に復刊している。
以後、来田先輩の熱血溢れる母校愛と金陽健児魂、大阪金陽会に対する熱意に多くの者が感動し氏を助けたのであった。昭和五一年・亀田会長よりバトンを受け継いだ紙谷会長(五中24回)は、当会を単なる親睦会のみにとどまらず広く人生・事業における指針をうけ影響を及ぼす場でありたいとして年一回の総会以外に月例会の開催を始めた。
昭和五四年紙谷会長より引き継いだ竹田会長(五中41回)にあってもこの月例会は隔月に実施していた。竹田会長に入ってからは会の運営がより活発になり、特に若い世代の入会が相次ぎ時代に対応した組織の拡充に努めてきた。
平成八年、竹田会長が本校金陽会会長に就任したため、西尾安司氏(五高26年)が会長を引き継いだ。その間平成十年には本校金陽会総会の開催を大阪金陽会が担当し、難波のサウスタワーホテルにおいて約四百名の参加のもと盛大に開催された。氏の三期六年の任期は、温厚な人柄のもと会員が結束し、会の運営が揺るぎのないものとなった。
その後、平成一四年氏の後任会長として井平康彦氏(五高28年)が就任することとなった。氏は実業家らしく着実な会運営に徹し、魚谷嘉孝幹事長(五高28年)と共に尽力され、三期六年の任期を全うされた。

九州金陽会

昭和61年6月13日、九州金陽会が、的場太郎同窓会長(昭和3年卒)と竹田栄夫大阪金陽会長(昭和16年卒)と小畠敬介(昭和16年卒)との話し合いで発足することとなった。当日、30名ほどの九州在住の卒業生が集まり、五條弁で話し合っている姿は郷里に帰ったように思わせる楽しい会合となった。
平成元年7月9日、大阪と九州とでテレビ同窓会を行い、大阪・東京・名古屋・大和高田の会員とテレビを通じて話し合いが行われた。
毎年、7月の博多山笠祇園祭の最中の第2日曜日に総会を持っている。

東京金陽会

昭和27年ヘルシンキ・オリンピック参加者のカンパの為発足、木村篤太郎会長(明治36年卒)のもと毎年総会が行われ大変盛会であった。
平成9年6月9日には創立百周年記念総会がサッポロビール銀座ビル9階日産ギャラリーで鬼追明夫(昭和28年卒)日本弁護士会連合会長を講師に迎え、的場太郎名誉会長、竹田栄夫会長等多数の出席者のもと盛会に行われた。毎年、大学教授などを講師に迎えて研鑽にも励んでいる。