第2節  五條高等女学校時代


・設立

明治40年、女子の義務教育就学率が全国的にも96.14%まで上昇していたが、奈良県には県立奈良女学校が1校あるのみであった。
明治36年、宇智郡女子手芸学校が五條町外8ヶ村の学校組合によって設立された。南和唯一の女子教育の場であり、富裕な家庭の子女が通って来た。明治36年の在籍者は、65名であった。毎週36時の授業の内、手芸に関する科目が22時間を占めていた。
明治39年6月、手芸学校は五條実業学校と改称、男女共学となった。宇智郡実業補習学校の商業部と農業部を併せ、宇智郡男子高等小学校内に設置された。し かし、最初の入学者は、手芸本科5名、選科26名、木工科8名、農業科13名であった。明治40年4月には組合が解散され、五條町立となり、農業部も1年 で廃止された。

・基礎づくり

この時、中村常治校長が着任、学校の体制を整えていく。実学上必要な知識と技術を身につけさせるため、学則を整備し、最終学年の課程を修了した者にのみ卒業証書を与えるとした。
明治43年10月、高等女学校令が改正され、高等女学校に実生活に直ちに応じることのできる実科を置くことができるようになった。そこで、本校の本科を 改め、新たに実科高等女学校を設立しようという中村校長の案は、松本長平町長らの理解を得、町会の決議となり、大正2年3月25日、五條町立五條実科高等 女学校の設置が文部大臣より認可された。
当時、奈良高等女学校が、明治37年の桜井高等女学校の開設に伴い、奈良県立奈良高等女学校と改められ、奈良女子高等師範学校の開設で明治44年廃校と なった。明治39年1月に私立育英女学校が、明治44年4月には郡山町立実科高等女学校が設立され、明治44年5月にも奈良市立奈良実科高等女学校が設立 された。
五條実科高等女学校の開校式は、大正2年4月10日、中村常治校長のもとで行われた。修業年限4年、生徒定員は200名、入学資格は年齢12歳以上の尋常小学校卒業者 とした。
これまでの五條実科学校は、大正4年3月末の閉校に向けて組織を変更し、4月21日には実科学校生徒に対して、実科高等女学校への編入試験が行われた。

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生徒は、木綿の元禄袖の着物と白テープをつけた袴をはき、刺繍・裁縫道具を持ち、下駄履きで通学していた。8月23日、屋内体操場の上棟。行事は、大正2 年5月29日、大阪市天王寺での大日本殖産博覧会と堺大濱の水族館の見学。大正3年10月、3・4年と実業学校2年が、奈良・大阪・神戸地方に2泊3日で 旅行。大正4年11月、本科3・4年と選科生は2泊3日で京都・大津方面旅行。学芸品展覧会も、大正3年には1万人を集め、大正4年には7千人の入場者が あった。大正3年11月、第一次世界大戦でドイツの青島要塞が陥落し、吉野川原で開かれた祝勝会に生徒・職員が列席。大正3年1月12日、桜島が135年 ぶりに噴火し、灰は東京にまで降ったといわれる鹿児島罹災に生徒より白米1石2斗を義捐した。

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・高等女学校へ

大正5年4月、文部省より認可され、奈良県宇智郡五條町立五條高等女学校と改称。この頃、全国で昭和11年にかけて高等女学校が約3倍に増加、奈良県で は大正9年4月に奈良県郡山高等女学校となった。同年7月にも高田高等女学校の設立が認可され、大正10年御所高等女学校が開設された。大正15年の時点 では、県立で桜井、高田、御所、五條、宇陀、吉野の6校、町立では郡山、私立では天理、奈良育英、奈良女子高等師範学校の付属高等女学校および実科高等女 学校があった。

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大正5年、入試は4月5・6日に実施、8日から3日間は学芸品展覧会が開かれ、4月20・21日実科高等女学校から高等女学校への編入試験が行われた。一 時期、全県下から入学生が集まり、和歌山県からも生徒が来ていた。中村校長は、スポーツを奨励し、そのため県下の運動競技会では優位であった。中村校長の 熱心な経営のもと、毎日遅くまでの練習に励んだ成果であった。

寄宿舎は、最初の本町1ー12から、今の五條児童館の地に新築、籐花寮と称した。寮の入り口の所に校長の官舎があった。大正6年10月、金剛登山四里リ レーが行われ、北宇智村御霊神社前から金剛山頂葛城神社前までその間を32区に分け、4組で争った。出発点には、北宇智地区の住民らが多数押し寄せた。大 正7年4月の県中学校連合運動会では圧倒的に優位を占めた。このように本校を発展さ せた中村校長が逝去した。

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大正7年、悪性の流感が大流行し、寄宿舎で部屋を夜中の2時頃まで見舞い、その流感で自身が亡くなった。大正7年11月9日、町葬を行い、全生徒がお下げ髪に白紙を付けて参列した。
このころ、本校を中心に五條町と村部が利害関係で対立し、森本正哲校長等が議事堂に訴えかけた。大正9年4月6日、文部大臣より認可され、宇智郡立五條高等女学校と称することになった。開校式は、4月13日に実施された。

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従来の実科を廃止、修業年限4年の本科と1年の補習科のみとなった。定員は400名、授業料は月1円50銭であった。
修学旅行は、大正9年10月12日から東京へ5日間となった。服装も大正9年12月1日に改め、下駄・足袋を廃して下パンツを用い、和服を短くし、有志 の者に洋服を用いさせるとなったが、ハイカラさんは少なかった。大正11年7月28日、三重県阿漕浦で県立津高女の寄宿舎を借り、20日間の水泳練習をし た。

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大正12年の郡制廃止により、新築移転151,590円は郡費と旧校舎の売却代、残りはすべて郡内町村からの寄付であった。場所は宇智郡五條町大字五條 204番地、現在の本町3丁目である。大正12年4月1日、奈良県立五條高等女学校が成立し、定員450名、授業料は年額39円、県外生は50円であっ た。大正12年11月10日に新敷地で秋季大運動会が開かれた。大正13年11月3日新築 落成、記念展覧会を2日間、第3日目に運動会を催した。この間、大正12年9月1日の関東大震災に対し、郡婦人会と協力して義捐金・救護品を募った。
毎年冬に雪中登山が行われた。雪が降るとこれから登山をするので、 何時までに準備せよと指示が出て、学校から歩いて登り、帰りは汽車に乗っても良かった。大正14年11月1日から1週間で朝鮮半島への修学旅行を実施し、東京方面とは各自が選んだ。

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昭和3年11月、御大典祝賀式が行われ、学芸会と展覧会が同時に実施された。この年、学則が改正され、修業年が5カ年、定員500名となった。教育方針 は、良妻賢母が女子の本分とされ、家事・育児が重視された。体育館(鉄筋コンクリート製)が工費14,690円で落成された。

昭和6年10月25日、県下の新聞に昭和7年度入学生募集が掲載されると、宇陀中、五中、磯城農、五條高女、吉野高女の5校の学級減が示された。このこ とに対して、本校では、学級整理反対運動が起こった。まず、出身小学校15校の入学志願者を調査し、10月27日、野村五條中学校長との協議を始めとし て、郡卒業生、町会議員と協議を尽くし、藤原町長、島本県会議員等に依頼して県当局と折衝を行った。

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昭和9年、第4回オリンピック、ロンドン大会の陸上競技日本代表選手に5年生乾富美子さんが選ばれた。昭和9年5月26日、甲子園運動場での60m走に7秒8の日本最高 新記録を樹立したからであった。支援としてオリンピック出場実況映画フィルム三卷作成、渡欧記念優勝歓迎大運動会(郡内学童)、帰朝歓迎大運動会(全県下女子中学校参加)の記念事業が計画され、オリンピック出場記念雑誌も発行された。2-4-1

・太平洋戦争

昭和12年日中戦争が始まった。昭和13年4月、国家総動員法が公布され、11月に義務訓練等が実施された。11月23日、皇軍将兵武運長久祈願のた め、全生徒が御霊神社に百日間輪番での日参も始まった。昭和13年5月建国奉仕隊結成、7月夏期休暇中の1週間を集団勤労作業に当てることになった。昭和 15年から野原町で食糧増産農場の経営、野原川原を開墾しての芋作り、綿作りを行う。修学旅行においてもモンペ姿の宮城勤労奉仕となり、五條高女挺身隊も 結成された。

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昭和19年7月、5年生90名が愛知県豊田自動車工場に動員された。粗食、服装は油だらけの作業服、モンペ、頭に鉢巻きをし職場ごとに2・3班に分かれ整列し歩調を取って進む。授業は週1日程度となり、作業の毎日であった。

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・終戦後

昭和21年日本国憲法が公布され、文部省は男女共学制の6・3・3・4制を実施。昭和22年、1年の募集はせず、2・3年は併設中学校に編入することと なった。この年、水泳部の活躍がめざましく、9月の近畿女子中等学校水上競技大会に優勝。昭和23年3月23日、県立五條高等女学校は県立宇智高等学校と なった。9月1日から五條高等学校と統合され、男女共学の県立五條高等学校(普通科・商業科)に統合された。宇智高等学校は廃校となり、校舎は新制中学校 に貸与された。

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